Blossom

SEASON

Blossom

 南向きの大きな窓から見える中庭には、大人の背丈より少し大きいくらいの白梅の木。その枝にはいくつかの花が咲き、白くふっくらと膨らんだつぼみも見えた。このまま暖かい日が数日続けば、満開になるだろう。
「大分暖かくなってきましたね」
 そろそろ中年に差し掛かった受付係の女性――菊間さんが、午後からカウンセリングを行う患者のカルテを机の上に置きながら窓の外を覗き込む。
「そうね。もうすっかり春よね」
 私の言葉に、菊間さんが大仰にため息を付く。
「少し前までなら嬉しかったんですけどね……一昨年から花粉症になっちゃって」
「あら。大変ですね」
「ほーんと。薬飲んだら眠くて眠くて」
「受付で寝ちゃわないでくださいね」
 私が笑うと、菊間さんも笑いながら、手首を利かせて私を叩くフリをする。
「分かってますよー。先生も、暖かい窓際で寝ちゃわないでくださいよ」
「はいはい」
 カルテを手にそう返事をすると、菊間さんは診察室を出て行った。途端、室内はしんと静まりかえった。
 ここは、郊外にあるメンタルクリニック。診察医は私の他に二人いて、それぞれ個別の診察室にいる。診察室は、話し声が外に漏れないよう、防音……とまではいかなくても、筒抜けにならぬような作りにはなっている。
「白梅……か」
 だから、私のこの呟きも、外に聞こえることはなかったと思う。
 白梅。
 私にとって、それは単に花の名前を意味するだけのものではなかった。


「あなたが桜ちゃんね?」
 当時、まだ小学校にもあがっていなかった私に、女性は柔和な笑みを浮かべてそう言った。
「私たち、二人ともお花の名前なのね」
 白木梅(しらき うめ)。まるでお婆さんみたいな名前のその女性は、私の両親より少し年上で、親しい人から「白梅(しらうめ)さん」 と呼ばれていると聞いた。お父さんの弟のお嫁さんのお姉さん、つまり、私にとっては血のつながりも縁も、そして会ったこともなかった他人同然の親戚のおばさんだった。
 白梅さんのおうちは古い日本家屋で、庭も日本庭園のようで、その庭の中央には立派な梅の木が植えられていた。白梅さんは、仕立てのよさそうな着物を着て、まるで良い姿勢のお手本のようにビシッと背筋を伸ばして、その梅の木の側に立っていた。
 凛とした眼差しと、きゅっと結ばれた口元。第一印象は「厳しくて怖そうな人」 だった。でも、笑うととても綺麗で、私はそんな綺麗で優しい笑顔をする人がいるんだと、ぼんやり思っていた。
 私の手を引き白梅さんの前まで来た父は、「よろしく頼む」 と一言言うと、私の手を離して私を白梅さんの前へ押しやった。
 私はそんな父の言動に、そして親以外の誰かに預けられることには慣れっこだった。だから、いつものように数週間経ったら迎えにきてくれるんだと思っていた。
「ちゃんということ聞いて、いい子にしてるんだぞ」
 その日は三月だというのに雪が舞っていてとても寒くて、だけど珍しくお父さんが手をつないでくれていたお陰でとても手が温かかった。
 その温もりを味わうことは、それっきりなかったけれど。

 私にとってお父さんとお母さんは唯一の家族で、唯一の親だった。
 例え理由もなく、気分次第で私を殴ったり存在すら無視したり、コロコロ変わるお母さんでも。
 例え殴られる私を庇ってくれず、ほとんど話もしてくれないお父さんでも。
 このお父さんとお母さんがいなければ私は生まれてこなかった。
 そのお父さんとお母さんの元から離され、旦那さんを亡くした白梅さんの家の子になると教えられた時も、両親にはそうせざるを得ない事情があって、きっと私を愛しているがゆえにそうしたんだと思っていた。

「ちゃんということ聞いて、いい子にしてるんだぞ」

 その言いつけを守りさえすれば、いつかは家族が一つに戻れると思っていた。おとぎ話のように、あっという間に幸せな家族になれる魔法がかかるんだと――優しいお母さんと優しいお父さんと私という、絵に描いたような幸せな家族に、いつかなるんだと。無意識にそう考えていたのかもしれない。
 だから私は、明るく行儀良く、『いい子』 と思える全ての事を実践してきた。
 白梅さんは口数は少ないものの、優しくてとてもきちんとした人で、子供の私でも『両親とは違う大人』 なんだと感じた。
 お茶の先生をしていた白梅さんは、私にもお茶を教えてくれた。私が望んだことだった。今思えば、気に入られようと必死だったのだと思う。
 決して母のように怒鳴ったり殴ったりするようなことはなかったし、とても優しかったけれど、私は失敗しないように、いつも緊張していた。
「そんなに緊張しないで。楽しむ心を持ちましょう」
 そう言われても、私は緊張を解く事ができなかった。『楽しまなければ』 という緊張が、また私を襲ったからだった。
 その緊張がいつの間にか当たり前になった頃、私は何があっても泣かない、怒らない、悲しまない、強くて良い子になった。
 そんな良い子のまま、庭の中央にある白梅の花が何度も咲いては散っていった。

 相変わらずいい子の私が、自分自身を支えきれなくなったのは、また梅の咲く季節が来た頃のことだった。
 それはとても寒い日で、三月だというのに空には重い雲が立ち込めていた。学校帰り、早足で帰る私を追い立てるようにして小雨が降り、それはやがて雪に変わった。
 手袋をしていてもかじかむ手に息を吹きかけて、それでも温まらない手を自分の手で握ったところで、ふと何かが胸につかえた。
 それは今まで感じたことのない、それでいてずっと前から知っているような妙な感覚のもので、私を混乱させた。
 そして、いつの間にか歩みを緩めていた私がたどり着いたのは、親と別れてから『家』 として過ごしてきた白梅さんの庭だった。
 そこには、初めて見たときとほとんど変わらない白梅の木があり、あの日と同じようにちらほらと花が咲いていた。

 ねえ。ちゃんということ聞いてるよ。
 いい子にしてるよ。
 いつになったら来てくれるの?
 いつになったら、私たちは『幸せな家族』 になれるの?

 心の中でいつまでも泣いていた小さな私を、いつの間にか十年経って、中学生になっていた現実の私が笑った。
「馬鹿みたい」
 父親も母親も、とっくに私を捨ててどこかへ行った。理由も知らない。親戚も誰も、それを教えてはくれなかった。分かっているのは、世間に対して大っぴらにすることの出来ない、ろくでもない理由だということだけ。
 でも、小さな私は泣き止まなかった。
 初めから、私には『幸せな家族』 なんてなかった。そんなもの、用意されてなかったんだ。
 あの二人は私を、子供を愛していなかった。私は、愛されていなかった。私は、親にすら愛される価値のない子供だった。必要のない子供だった。私は、幸せになれない人間なんだ。
「違う……」
 親にも、私を育てていけない事情があった。それに、私は幸せだった。白梅さんに引き取られて、とても幸運だった。優しくて、叱ってくれる時もちゃんと一人の人間として扱ってくれた。私の事を考えてくれる人に育てられたのは、とても幸運なこと。あのままあの両親の元で暮らすより、ずっと幸運だったはず。
「私の家はここ」
 その言葉に、小さな私は首を横に振った。
 白梅さんは好き。訳もなく殴ったり、一人置いていくようなひどい人たちよりずっとずっと親らしかった。私を愛してくれている。
 ……でも、ずっと夢見ていた。いつもじゃなくていい。怒られてもいい。『本当の両親』 が私を見てくれる日をずっと夢見ていた。私を抱きしめてくれる日を。一緒に笑いあえる日を。『幸せな家族』 の魔法を。
 ずっと。
 ずっと、ずっとずっと!
「ぃ……やだ……」
 そんなこと思ってない。思ってない思ってない思ってない思ってない思ってない思ってない思ってない思ってない思ってない思ってない思ってない!

 バキっ、と何かが折れる音で、私は我に返った。右手に痛みが走る。
「っつ……」
 それと同時に、手首を強くつかまれ、私はそのまま勢い良く振り向かされた。
「やめなさい」
 顔を上げると、私とほとんど身長が変わらなくなっていた白梅さんがいた。怒ったような、泣きそうな、今まで見たこともない表情で。そして、私の後ろを見て顔をしかめる。
 後を追うように振り返ると、梅の枝が一本折れて、木の皮一枚で繋がったままぶら下がっていた。
 白梅さんの大切にしていた梅の木に、自分の手を何度も叩きつけていた事、そしてその枝を折ってしまったことに気付いた私は、もう一度白梅さんを見た。
「ごめ……なさい」
 反射的に謝罪の言葉が口をついて出た。白梅さんの、私の手首をつかんでいない方の手が動き、私は覚悟を決めてぎゅっと目を閉じた。
「こんなになるまで……」
 殴られると思った私をふわりと包んだのは、白梅さんの着物の匂いと温かな腕だった。
「こんなになるまで自分を責めては駄目。こんなになるまで自分を痛めつけては駄目」
 白梅さんは、まるで呪文を唱えるように、震える声でそう言った。

 その後、ぼんやりとする私を、白梅さんは初めてこの家に来た時と同じように、居間へと招きいれてくれた。右手の傷を手当てし、思い出したようにテーブルの上の梅の枝を取り、床の間に飾られていた花瓶にそっと挿した。
「枝を……折ってしまってごめんなさい」
「いいのよ。少し切ろうと思っていたから。……それより」
 白梅さんは私のすぐ側に座ると、そっと私の右手を取り両手で包んだ。
「痛かったでしょう?」
 温かなその手は、とても優しかった。
 首を横に振った。痛くない、と。その拍子にポタ、としずくが膝に落ちて、制服のスカートに染み込んでいった。
「痛みを感じることは、いけない事じゃないのよ」
 白梅さんの左手が私の右手を大事そうに持ち、白梅さんの右手が私の肩から二の腕をそっとさすった。温かさが伝わって、私は初めて自分の体がひどく冷えていると気付いた。そして、こんな風に誰かに大事に触れてもらえたのは、白梅さんだけだったということにも。
「怒りを、悲しみを感じることはいけない事じゃない。いけないのは、見ないふりをして蓋をして、我慢しすぎてしまうこと」
 一旦言葉を切り、そしてどこにそんな力が潜んでいるのかというくらい、ぎゅっと私を抱きしめた。
「感情を恥じて、自分を責めてしまうこと」

 魔法の言葉だった。

 でもそれは、私が幼い頃から望んでいた『幸せな家族』 の魔法ではなかった。むしろ悲しかった事、苦しかった事、何より、自分の中で抑圧していた両親に対する怒りの姿を暴く魔法だった。
 苦しかった。苦しくて息も出来なくなるくらい、悲しくて悔しくて涙が溢れた。言葉にならない叫びも溢れた。
「ずっと……苦しかったのね。今はその怒りを吐き出しなさい」
 私は白梅さんの膝に顔を埋め、暴力を振るった母を、見て見ぬふりした父を、見捨てた両親を、預けられる度に忌ま忌ましい邪魔者と言わんばかりに扱い、時には理不尽なしつけと称した虐待をした親族たちを、声が嗄れるまで罵倒した。
 それだけでは足りなくて、畳を何度も何度も叩いた。白梅さんが座布団を引き寄せて敷いたので、叩きつける大きな音はボフボフと情けない音に変わった。でも、お蔭で手は痛くなくなった。
 怪物のように暴れ狂う感情に任せ、私は何時間も泣いていた。
 白梅さんは相槌を打ち、私の感情を否定せず、ただただ、ありのままを受け止めてくれていた。
 いつのまにか雪は止み、雨雲が去って月明かりが部屋を照らしていた。
 それでも、白梅さんはただただ私を受け止めてくれていた。


 どれくらい時間が経ったかも分からなくなり、私が泣き疲れた頃、白梅さんはようやく口を開いた。
「……ねえ、桜。あなたは、これまでずっと自分を見捨ててきたのね。お父さんやお母さんや、おじさんやおばさん……たくさんの大人たちの都合のために、自分を傷つけることもいとわず、ずっと自分を見殺しにしてきたのね」
 白梅さんの声は、まるで子守唄のように優しく、流れるように私を満たしていた。
「そんな大人の中で一生懸命「完璧な子」 になろうと頑張っていたのね」
 完璧な子。そう。誰からも好かれ、誰からも必要とされる完璧な人間に、私はなりたかった。
 そうでなければ、親ですら見捨てた私を、誰が引き取ってくれた? 誰が育ててくれた? それ以外に、どうやったら私は「私」 を守って生きていけた?
「でも、もういいのよ。これまで周りの大人があなたに教えてきたことは、全部間違っていたの。あなたは、そのままのあなたでいいの」

 そのままの、自分?

「私は、桜、あなたを愛していますよ。あなたがどんな子でも、あなたの存在そのものが、私にとってかけがえのないもの……あなたは、そのままでも愛するに値する人間です。だから、あなたも」

 あなたも、自分を愛してごらんなさい? きっと……できるはず。



 目を開けると、相変わらず穏やかな日差しの中で、白梅は美しい花を綻ばせ佇んでいた。
 あれから更に十年。私が完全に親の呪縛から解放されるまでには、それだけの年月がかかった。
 大人の都合で植えつけられた、誤った認識を一から学び直すにはそれだけの時間が必要だった。時に赤ん坊のように甘え、時に訳もなく反抗する私を、白梅さんは根気良く育ててくれた。
 そして、本当の意味で『自分を愛する』 というのがどういうことなのかが分かった時、私はやっと自由になれた。
 親を変えることも、過去を変えることも出来はしない。心の傷も、なかったことには出来ない。
 それでも、私は自由になれた。自分が完璧でなければ愛されないという呪縛、そして両親を憎み続けるという呪縛から、開放されることが出来た。
 その事を白梅さんに話したのも、丁度こんな季節で、こんな穏やかな日だった。
 カウンセラーになる。そのために制度の整っている海外へと勉強しに行きたい。そう言った私に、白梅さんはいつもと同じような笑顔を浮かべた。
 白梅の花がほころぶような、綺麗な笑顔だった。
「桜……笑顔がとっても素敵になったわね」
 本物の桜の花に負けないくらい。
 それが、私が聞いた白梅さんの最期の言葉になってしまったけれど、その時感じた照れくさいような、くすぐったいような、けれどとても嬉しい気持ちを、私は今でも覚えている。
 だから……だから私も……
「先生。白木先生」
「はい」
「そろそろお呼びしてもいいですか?」
「ええ。お願いします」
「分かりました」
 菊間さんがドアを閉め、患者さんを呼び出す声がする。
 だから私も、患者さんを目の前にするたびにいつも願っている。
「失礼します……」
 心の傷に苦しみ、葛藤し、呪縛から逃れられない患者さんの顔を見るたびに。

 硬く閉ざされたつぼみが、いつかほころぶように。
 あなたにも、綺麗な笑顔の花が咲きますように、と。



  

  



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送