Japanese pampas grass

SEASON

Japanese pampas grass


 夏の熱気が抜けた心地よい風が、目の前に広がるススキの草原を揺らす。山々はまだ緑のままで、開きかけたススキの穂だけが秋の始まりを主張しているかのようだった。
「懐かしいね。この辺りで昔よく遊んだよね」
 私は、斜め前を歩く姉に出来るだけ明るい口調で声をかけた。
「そうだっけ?」
 姉は淡々とした口調で返す。特に機嫌が悪いようでもなく、ただ淡々とした表情のまま、辺りの景色を見渡していた。
 昔よく遊んだ。確かに、ずっと幼い頃は、二人でよく遊んでいたと思う。けれど、小学校、中学校と年を重ねる毎に私たちの仲は険悪になっていた。いや、私とだけじゃない。姉は、両親とも仲が悪かった。家では喧嘩が絶えなかったし、姉がよくヒステリーを起こしたりしてひどい状態だった。
 そんな姉を、両親は次第に遠ざけ始めた。姉の存在を無視するようになっていたのだ。私は陰鬱になる姉が傍にいることが、正直たまらなく苦痛だった。
 学校や家の外では明るく活発なのに、家の中では陰鬱な姉。そういう暗い空気は感染しやすい。姉が傍にいると、その欝に汚染されるような気分になったのだ。
 だから、姉が高校卒業と同時に実家を出たことに、ホッとしていた。高校を卒業して東京の大学に進学した姉は、ここに戻ってくるまでの七年間、ほとんど実家に連絡することもなく東京で暮らしていた。
 姉が出て行った頃になって、私は初めて姉が受けていた精神的虐待の事実に気付いた。姉がいなくなった後、突如として、母は私に辛辣な言葉を投げかけるようになったから。それらは皆、昔姉が言われていたものばかりだった。そんな私を助けるでもなく、父は相変わらず無関心だった。
 何故姉が度々ヒステリーを起こしていたのか。何故あんなに陰鬱になってしまったのか。何故あんなにも「早く家を出たい」と言っていたのか。それらの原因に気付いた時には、既に遅かった。
 姉は、何年も前から神経症――つまり、ノイローゼ状態だったのだ。
「私の病気の事、お母さん達から聞いた?」
「うん」
 一応、聞くことは聞いた。姉が不安障害とうつ病を患っている事。パニック発作というものを度々起こし、その為に仕事を続ける事が出来ず実家に帰って来た事。治療には、家族の病気に対する理解が不可欠である事。
 父は、その話をしている間も、何も言わなかった。母は、涙を浮かべ、声を詰まらせ私に病状を説明していた。自分の育て方を責めるような振りをして、姉の心の弱さを嘆いている事がありありと感じられた。
 今の時代、神経症などの心の病気は、『心の風邪』 と言われるくらい珍しくない病気だと思う。それでも、両親にはかなりの衝撃だったようだ。姉が帰ってからの両親は、前に比べて信じられないくらい優しく、それでいてどこかよそよそしかった。
「治療の事とかで、迷惑かけると思うんだ。色々」
 ぽつり、と、姉が言った。
「頼りない姉で、ごめんね」
 その言葉は、私の胸にすとんと落ちて、波紋のように広がっていった。
 立ち止まった私に気付いた姉が振り返る。元々小柄で痩せていた姉は、ますます小さく、ガリガリになっていた。傷つき、弱りきった姉の心を、そのまま体現しているかのように。
 ごめんねは、あなたの言う言葉じゃない。
 ごめんねと謝らなければいけないのは、私たち家族の方。あなたの叫びに、耳を貸さなかった私たちこそ、あなたに謝らなければいけないのに。
 目の奥が熱くなるのが分かった。鼻につんとした痛みが走り、視界が揺らいでいく。でも、泣けない。泣いてはいけない気がした。
 幸い、涙はこぼれなかった。何度か瞬きをすると、揺らいでいた視界がクリアになる。
「昔さ、ここで近所の子たちと遊んでた時、私一人はぐれた事があったんだよね」
 声が震えないように注意しながら言って、視線を姉からススキが生い茂る野原へと移すと、姉も同じように視線を移した。
「私も一緒だった?」
「うん」
 その頃、近所の子供は年も性別も関係なく、皆一緒になって遊んでいた。その子供たちの中でも私は一番年下で、皆から足手まとい扱いされていた。走り出す皆に追いつけなくて、それでも一緒に遊びたい一心で付いて行った。けれど、子供がすっぽり隠れるくらいススキが生い茂ったこの野原で、私は皆からはぐれてしまったのだ。
「皆遊びに夢中だったみたいで、私に気付いてくれてなかったんだよね。呼んでも返事がなくてさ、周りは何も見えないし、怖くなってしゃがみこんで泣いちゃって……」
 私の話を聞くうちに、姉も思い出したらしい。
「そうだ……後で気付いて、皆で探し回ったんだっけ」
 姉は、私の方へ視線を戻した。私も、姉を正面から見つめた。
「あの時、一番最初に姉さんが私を見つけ出してくれて、すごく嬉しかったんだ。正義のヒーローみたいに見えた」
 自分でも、何を言いたいのか分からない。ただ、こうして話しているうちに、今までネガティブな過去に隠れていた姉との『良い思い出』 が、後から後から湧き上がってきていた。
 何故、忘れていたのだろう。ヒステリーを起こす姉しか覚えていなくて、優しくしてくれたり、一緒に笑いあったりした事を覚えていなかったなんて。
「頼りなくなんかなかったよ。今も、帰ってきてくれて嬉しいし……だからさ……病気になった時くらい、弱音吐いたっていいじゃない。情けないなんて思わないよ」
 姉を励ましたいという気持ちよりも、私自身がそれを伝えたい。そんな気持ちだった。
 姉の顔が歪み、泣いているような笑っているような、複雑な表情を作る。多分、私も同じような顔をしていたに違いない。今度は、涙を堪える事ができなかったから。
「……ごめんね、こんなところで泣いちゃって……」
 少しして、姉は涙声のまま言った。
「ううん」
 私も鼻声で言って、首を横に振った。
「陽も暮れそうだし、帰ろうか」
「うん」
 お互いに涙を拭って、照れ笑いを浮かべていた。
「おかしいね。こんなところで二人して」
「いいじゃない。誰もいないし」
 私は、細くて長い姉の指に手を伸ばし、小さな子供がするみたいにギュッと指を握った。
「昔、こうやって手をつないで一緒に歩いたよね」
 あの時、手をつないで生い茂るススキの野原から連れ出してくれた。
 今度は、私が姉の手を引いて、視界の効かない心の闇から、姉を連れ出そう。簡単なことではないけれど、あの家でそれが出来るのは多分私だけだから。
 まるで子供みたいに、嬉しそうに微笑む姉の後ろで、夕日に照らされたススキたちがサワサワと揺れていた。


  

  



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